
経歴・プロフィール
1926年、中国大連に生まれた羽田澄子は、自由学園を卒業し、岩波プロダクションの設立に参加しました。彼女は、1957年の『村の女子大学』を皮切りに、80本以上のドキュメンタリーに関わってきました。『灰色の花の桜の木』(1977)の後、彼女は独立系映画製作に転向し、『八幡平へのオード』(1982)や『老年期のケアの仕方』(1986)、『不安なく老いる』(1990)、『女は太陽だった—平塚らいてうの生涯』(2001)など、10本以上の映画を制作しました。彼女はYIDFF '99の国際コンペティションで審査員として参加しました。

